さっきひらめいたんだけど、アクと癖のなさかもしれない。
アルカリ性の癖のない飲みやすい軟水のような。
うそや!てめぇは正直クセ強いねん…十分やばいやつよ……とやら言われてしまうかもしれません。
だがしかし、それはわたし自身が周りからそう言われたくて、そう言わせたくって、そう振舞っていただけなのでは!?とふと気がついてしまっていたのです。
「ふつう」と言われたくなくて、「変わってる」と言われたくて、そう演技してきたのかもしれないことに気づいたのです。
そして「ふつう」と比べて出来損ないの自分がすごく苦しくて、ならばいっそ振り切って「キチガイ」コースを歩もうと腹を括ろうとしたのも、その変な人でいようと囚われる要因となっていました。
だがしかし、もとのもとを辿ってみれば、あんまし癖のないすまし汁みたいな、菜っ葉で言えば春菊より小松菜的な存在なのかもしれないと気づいてしまったのです。
だからもう、「個性的な」自分であろうとなんかしなくていいし、それはかえって自分の良さを相殺してしまってんのでは?
もう、存在感とかどうでもよくって、自分なんかなくていいんだな、自分を薄くしていくコースこそがわたしの歩むべき道なのかもしれない。
自分が、わたしが、もう主張しなくていい。
受け身でふらふら漂っている自分こそ、アクのなさという強みを生かせる生き方なのかもしれない。
主体を自分とせず、目の前の相手とする。
黒子に徹する
相手に花を持たせる
透明人間みたいに、生きていく。
アノニマス的。自分を出さない。
すごく楽になる。
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